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2010/03/09

【0014】万葉線存続運動・蝋山先生ご講演(5)

■ 富山らしさをもう一度認識すべき
 そろそろ雪が降って、スキーのシーズンになります。東京や大阪のスキー仲間に「富山県のスキー場に行ったことがあるか」と聞くと、ほとんどいません。相当なスキーフリーク(夢中な人)でも昔の極楽坂を少し知っているだけです。あるいは、春に立山に来たとか、その程度でほとんど知られていません。なぜ富山まで来ないのかというと、途中にいろいろなスキー場があるからです。例えば東急が開発したスキージャム勝山が福井県の勝山市の奥にあります。そこはスキー場というよりスノーボード場になっていますが、ここは関西から夜行、ないしは早朝から日帰りできるスキー場の混雑率ナンバーワンです。しかし、勝山まで行く時間と、富山まで来る時間を考えてみると、それほど差がありません。しかも、帰りの混雑を考えてみると、むしろ富山の方が近いとも言えます。志賀高原や白馬は人気がありますが、帰りに10時間もかかるというのが当たり前です。富山は北陸道を使えばもっと早いわけですが、要するにスキー場として魅力がないのです。 JR列車を使って降りてもバスがありません。日曜の早朝にだけ高岡駅前や富山駅前から牛岳やイオックスアローザなどへのバスが出ていますが、基本的に地元の人を念頭に置いているだけです。冬に立山駅で降りて「粟巣野に」と言ったら、きょとんとした顔をされました。また、私の近くの万葉線の駅で、夫婦2人でスキーを担いで電車を待っていたら、後から、何人もの人に「すごく珍しい人がいる。スキーを担いで電車を待っている。誰と思ったら学長だった」とからかわれました。

 しかし、私は公共交通機関を利用してスキーに行くことがなぜおかしいのかさっぱりわけが分かりません。平スキー場に行った時、バスがありませんから、城端からタクシーに乗りました。タクシーの運転手に、スキーが長すぎて入らないと言われ、仕様がなく窓を開けてもらって走りました。タクシーも公共交通機関なのですが、ルーフにスキーのラックが付いていないのです。そういう例を考えてみると、ともかく自家用車でスキーに行く、自家用車で山登りに行くことが当たり前になってきてしまって、それである種需要を拡大しているようですが、実は需要を減らしてしまっているという面白い結果になっているのです。ですから、富山のそうしたことは抜本的に見直しをしていかなければならないと思います。 昔、私が山登りをやっていたころに、富山地鉄を何回か利用して今の立山駅まで行きましたが、当時と比べてみると、これだけの進歩があったにもかかわらず、富山地鉄は、全く進歩がない状況になっています。時間のうえでも1時間、昔も1時間だったと思います。駅を降りて、立山の駅舎は少しきれいになりましたが、他はほとんど変わりません。また、駅を降りて富山を訪ねて来た者にとって、何か富山らしい楽しみをと思うと、なかなか見つかりません。山から降りてきて、富山は面白くない街だったという印象を持っていますが、これは公共交通機関を利用する限りにおいてそうなのです。

 しかし、本当に考えてみると、総曲輪の周りでも、少し中に入った桜木町でも、あるいは最近では掛尾の辺りでも、ずいぶん富山らしい面白いところがたくさんあります。そういうスポットの存在は外から来た者にとっては、いかにグルメ雑誌やレジャー雑誌が豊富でもそうそう簡単には見つかりません。やはり公共交通が主軸になって、そうした情報伝達の機能を持たなければいけないと思います。

これからお魚がおいしくなります。スキーから帰ると、お魚で一杯が恋しくなります。
高岡の駅を降りてお寿司を食べたい。あるいは、居酒屋で一杯飲みたい。どういうところに行ったら良いでしょうか。駅の中に観光案内所があるので伺ったとします。そうすると、
「こういう店があります」と高岡のことは教えてくれます。立派な地図もタダで手に入れ
ることができます。しかし、万葉線に乗れば新湊にもたくさん寿司屋がありますが、「こ
の駅で降りればこういう寿司屋がありますよ」という新湊寿司マップは、残念ながら高岡
では入手できません。

 要するに、路面電車の万葉線がそうした2つの市を繋ぐと言いながら、そうした情報提供の役割を果たしていないわけです。電車に乗っても、新興宗教の広告はありますが、寿司屋の広告はありません。公共交通機関の本来持っている多面的な機能をもっとフルに活用しなければ、利用者が少なくなるのは当たり前です。それをモータリゼーションの影響だ、少子化の影響だというのは、経営の失敗を許すための弁解にしか過ぎないのではないでしょうか。

 さらに大事なことは、そういうまずい経営を矯正する力、正しく直す力が周囲から与えられなかったことです。株式会社では、株主がそうした声を持つことが期待されています。加越能鉄道も株式会社ですから、株主の声に耳を傾けなければいけなかったはずです。しかし、大株主は富山地方鉄道です。したがって、「同じ穴の・・」と言ってはいけませんが、声はあったとしても聞こえてこないでしょうし、おそらく声が出なかったのではないでしょうか。さらに大株主として、これは声を大にして申し上げたいのですが、県が登場していたのですが、県は株主としての声を経営に反映させなかったのです。私は、これは県政の失敗だったと思います。市は補助金を出していましたので、補助金を出す立場としてものを言えたかもしれませんが、どうしても受け身にならざるを得ませんでした。

■ 万葉線の再生を:試金石
 今度の第3セクターの万葉線運営会社は、ボイスを発する株主に出資をお願いしなければいけないと思います。そういう点で奉加帳による出資は良くありません。奉加帳を回してもお金が集まらないから良くないのではなくて、奉加帳方式で出資者を募ったのでは声が出てこないのです。株主にガバナンスのメカニズムを期待できないわけです。そういう点で、市民出資をお願いすることが大事ではないでしょうか。一番大事な点は、そうした公共交通の担い手として、新しいことにチャレンジできる、公共交通の多面的な機能を生かす経営ができる経営者を探すことです。そして、それがうまくいかなかった時に声を発する株主を探してくることです。出資の問題や資産譲渡の価格をいくらにするかなど、ごく普通にジャーナリズムが大問題だとすることはそれほど問題ではなく、今申し上げたような点がもっと大きな問題だと思います。ここのところを乗り越えられなければ、私は、万葉線は止めるべきだとあえて申し上げたいと思います。 さらに、なぜこのように万葉線にこだわるかというと、実は万葉線に限らず、公共的な観点から言えば必要不可欠と思われるこの地域の公共交通機関が、従来からの担い手を変える傾向にあるからです。すなわちJRの民営化、特に北陸新幹線が完成した時には、おそらく城端線や氷見線を民営化しようという声が出てくるでしょう。あるいは、そうならないことを祈りますが、富山地方鉄道ももっと公共的な組織に切り換えなければ、とても民ではやっていけないという逆の動きも出てくるかもしれません。鉄軌道の交通は、今、一番苦しい時期に差しかかっています。その時に、「もう良いですよ。適当にやって鉄軌道をなくしても、これは仕様がないですね」と割り切れるでしょうか。私はそのよう割り切ることはできないと思います。JR城端線や氷見線の存在意義を考えると万葉線どころではありません。おそらく富山地鉄についても、立山線なり、宇奈月線にしても同じことではないでしょうか。
 
しかし、民営化した時にどうするのか、あるいは逆に、民営鉄道が準公営化されたときにどうするのかというテストケースが何もありません。私は万葉線の経営は、そういう点でテストケースに、試金石になるべきだと思います。そして、こういう経営をすれば少なくとも現状がより悪くなることはない、大幅に改善されるかどうかはともかく、地域における公共交通機関に期待される多面的な機能は、こういう形で活用できるというモデルにこれからの万葉線はなって欲しいと思います。ですから、万葉線の問題は単なる万葉線、新湊と高岡を結ぶ12.8キロの路面電車の問題ではなく、越中富山における全公共交通機関、あるいは狭く限っても、鉄軌道による公共交通機関の1つの大きな試金石ではないだろうかと、私は位置付けています。 いろいろな角度で私なりの公共交通に関する印象をお話しましたが、街はやはり公共交通を軸として作られるべきです。街づくりがあって、街があって、公共交通ができる。全く新しい原っぱに、大荒野に新しい街を作るのならばそうかもしれません。しかし、既にこれだけの歴史があることを前提にして考えれば、白地にものを描くのではありませんから、公共交通の存在を前提にした街づくりを考えるべきです。そのためには、公共交通自体が持っている多面的な機能、極端に言えば教育啓蒙機能まで持つということを、誰が見ても最大限に活かしているという経営をするような経営主体を確立すべきです。そして、主体をサポートし、場合によっては厳しい叱責の声をあげるガバナンスのメカニズムにこれを支援させるべきです。そういう見通しがあれば、お金は付いてくると考えています。そういうことによって、その結果、おそらく公共交通が総合的に、相対的に、その地域の地域らしさというものを活かすことになってくるでしょう。

■ 高岡らしさを活かす
 ひとたびそうなれば、ある種の好循環が発生すると思います。高岡でも、例えば瑞龍寺というシンボルが再生したことによって、高岡の持つ印象、プレゼンスは非常に向上したと思います。おそらく次に伏木の勝興寺の再建が実現すれば、7〜8年後には本堂ができ上がるそうですが、またそれなりの高岡らしさが加わるでしょう。「らしさ」とは何かと言ったら、私は歴史だと思います。そういう点では、私は関東平野の小さな町に疎開し、小学校もその町の小学校に入ったわけですが、そういう歴史のない町に比べてみれば、高岡の歴史、富山の歴史は極めてうらやましいもので、もっと活かさなくてはいけないと思います。

 そういう高岡らしさ、歴史というものが、現在の公共交通の中に併存することによって、街の風景を融合させることになってくるだろうと思います。駅を降りても何もない。ビルが林立している。その向こうに瑞龍寺があり、しばらくバスに乗っていくと勝興寺があるというのではそうした風景は生まれてきません。せっかくの歴史的な資産、「らしさ」というものが死んでしまいます。

 冒頭にも申し上げましたが、公共交通機関、特に路面にへばりついてカタカタと走っていく路面電車や鉄道というのが、それぞれの地域の「らしさ」、文化、歴史の象徴を体現し、具現化しているものだということを忘れてはならないと思います。自家用車も「らしさ」はそれぞれお持ちでしょうが、それは例えば「松原さんらしさ」に止まるのであって、「高岡らしさ」には広がりません。その中間的な存在としてバスがありますが、悲しいことにバスには、このバスはどこを走っていたのだろうかという「らしさ」がないのです。もちろんいくつかの工夫はあります。ディズニーランドの中を走っているバスは、やはりディズニーランドらしいところがあります。そういう工夫をする余地はあると思いますが、一般論としてはある時は高岡にも走るし、井波の方にも伏木にも走ります。全然「らしさ」がなくて、場合によっては観光バスに仕立てられて遠くまで行ってしまいますから、バスそれ自体にはあまり「らしさ」はあまり期待できません。道路についても同じことだと思います。道路に「らしさ」を植え付けるのは大変でしょう。

結局、地面にへばりついて、そこから離れることができない路面電車や鉄軌道交通、鉄
道というものが、「らしさ」を一番具体的に示すことのできる手段でしょう。単なる交通
手段ではありません。いわば交通手段の継続の中にそのような「らしさ」が生まれてくる
のです。こういうものを壊してはならないと思うし、壊してしまうならば、高岡も1つの
まあまあ大きさのある、しかし、何の変哲もない街になってしまいます。それは残念だと
思います。  

ある程度のお金はかかります。年間1億円は超えないと思います。数千万円のオーダー
で、6,000万円程度で済むと思いますが、それは高いのでしょうか、安いのでしょうか。私は安いと思います。もちろん、それに甘えてはいけません。それが無駄使いになっては困ります。今の状況のままでは無駄使いになる恐れなしとしません。しかし、ここで新しいタイプの第3セクターを、小さいながらもきちんと実現させることによって、後世に「1年間6,000万円のお金は大して無駄ではなかった」と言われるようにしなければならないし、そのための努力をしなければいけないでしょう。この経験が吉と出れば、おそらく城端線なり、氷見線なり、より大きな広い範囲に渡って、地域的な公共的存在のある鉄軌道資産のより良い運営が実現していくことになるのではないかと期待します。

 以上、私の申し上げたい点をほとんど申し上げました。おそらく皆さんにお叱りを被ったりすると思いますので、ご質問を受けたいと思います。ご清聴に感謝します。 (松原) 蝋山先生、大変ありがとうございました。新しいことにチャレンジし、ベンチャー精神をもって公共交通の多面的機能を活かすための具体的なご示唆があったと思います。ここで少し時間がありますので、ご質問を受けたいと思います。

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