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2010/03/09

【0011】万葉線存続運動・蝋山先生ご講演(2)

■ 富山の交通
 しかし、富山の交通を考えてみたとき、きちんとした明確な位置付けを持って交通が考えられているとはどうも思えません。ある種、時の流れに乗って、時の流れを追いかけることで終始しているのではないか。モータリゼーション、いわゆる自動車、特に自家用車の普及を当然のごとく受け止めて道路網を整備する。そして、道路の整備がさらに自家用車の魅力を高めて、自家用車の普及率を高める。この限りにおいては好循環が発生します。私は富山県の主要な道路を全部走ったわけではありません。私の移動手段は自転車ですので、まだ富山県の東の方まで自転車で行ったことがありません。射水平野を越えての東側は、せいぜい富山市周辺までで止まっているのですが、道路網は大変立派だと思います。特に、2万5,000分の1の地図で農道を探して走ると大変快適です。ほとんど自動車がいない広い道路がずっと走っています。ですから、おそらく地理を良く知っている人にとってみれば、自家用車は大変便利だと思います。一家に2台、3台と自家用車が普及するのは当然であって、自家用車の普及率日本一も私はそれなりに納得できます。極めて合理的な人々の選択の結果だろうと思います。しかし、それでいつまで持つかと考えると、私はやや危ないと危惧するわけです。

  確かに人の移動という手段だけで考えてみれば、そして、視点をそれほど遠く先まで考えずに、現在あるいは近い将来のことだけを考えてみれば、道路が整備され、自家用車で道路の上を動くことは、それはそれとして私は合理的だと思います。しかし、もう少し長い目で考えた時に、その道路と自家用車の好循環は、実は他の交通手段を壊滅的な状況にさせるという効果を持っているのです。とりわけ公共交通手段の利用が減少しているわけで、それに拍車をかける少子化という状況も顕著です。その結果、JR、路面電車、バスの現状は惨たんたるものになっています。

■ 公共交通の存在意義:その役割・機能
 万葉線の問題で使った資料の1つを皆さん方に配付させていただいています。これは高岡を例にしたものです。はじめに「平成元年を100とした公共交通機関別利用状況の変化」というグラフがあることにお気付きだと思います。北陸本線、城端線、氷見線、万葉線、路線バスがあって、平成元年を100としてこの12年の間に、北陸本線は86に、城端線は78に、氷見線は74に、万葉線は71に、路線バスは44と、路線バスに至っては半減以上、利用者は減少しています。こうした状態を公共交通機関の惨たんたる状態といって言い過ぎではないと思います。  

 ですから放っておけば、公共交通は無くなり、道路と自家用車に富山県の交通は依存することになるだろうと思います。それでよろしいということであれば、それはそれで1つの立場だろうと思います。おそらく富山で生活をしている、富山で生産している、富山で生きている現在の人の観点からいえば、道路と自家用車の共鳴的な活躍の幅の広がりはそれはそれとして合理的なわけです。しかし、そうなった時にどういう姿を考えるかをもう少し全国的な観点で、外側から見たときに、富山のプレゼンスは極めて低下することになるだろうと思います。

  いわば富山は通過する場所である。何か特別に目的があればともかく、通過する場所である。では、特別に目的があるのは何か。1つは、ツーリズムで観光に行こう。ところが、新幹線が出来て駅に降りてみたら何もない。後は、タクシーか団体旅行でバスを利用するしかない。あるいは、飛行場を降りても同じこと。さらに、ある程度の長い期間にわたり生活をする者にとってみて、企業から命じられて富山の工場なり、支社なりに勤務を命じられて大都会から移っていく。自分は運転ができる。しかし、忙しい。子どもの学校の送り迎えをどうするか。自動車を買わなければいけない。大変だ。あまり魅力ない。それでは、単身で赴任しようか。こういう形になり、結局、面として家庭の生活までをも巻き込んだ富山にはならないでしょう。いろいろな形で公共交通を軽視する時の流れにそのまま乗っていただけでは、実はその時の流れ自体を衰えさせてしまうのではないかと思います。同時に、せっかくこの素晴らしい富山県の魅力が、それでは死んでしまうという考え方もできるかと思います。公共交通こそ、私は富山県の魅力を支える縁の下の力持ちであると思われてなりません。
 
 実は今まで、自家用車あるいは交通というものは単なる移動手段であると前提してお話させていただきました。しかし、考えてみると、自家用車は単なる移動手段ではありません。高岡や富山のJRの駅あるいは富山空港に降りて見ると、アメリカなどと違うところは、レンタカーの広告があまり見えないのです。その代わり、サラ金の広告はたくさんあります。つまり、空港やJRの駅を降りて、レンタカーを借りて富山県を楽しもう、ビジネスをしようという人はそれほど多くないのではないか。日本人は、いわば自家用車とレンタカーを区別しているのです。言い換えれば、自家用車には単なる移動手段として以上の機能を持たせているように思われます。  

同じことは公共交通についても言えるはずです。公共交通も単なる移動手段ではありません。自家用車はレンタカーと違って別の、それに加えて付加的なさまざまな価値を持っています。自分のお尻にぴたっと合うシートというところから始めて、中の空気清浄剤の匂いに至るまで、さまざまな個人に合った工夫が自家用車になされています。それと同じように、公共交通にはその地域に合った、その地域の個性を反映するようなある種の匂いなり、ある種の雰囲気を持っているものではないかと思います。それを潰してしまうのは非常にもったいないと思わざるを得ません。  

 私はそういう点で、万葉線の存在はまさに高岡らしさの象徴であると考えます。高岡らしさを具現化しているものであって、それを潰して良いのでしょうか。万葉線がなくなった高岡駅、高岡の街を考えてみると、外から見た時には、どこにでもある、ごく普通の田舎都市に見えてしまうように思われてならないのです。「そんな意見は文学的感傷であって、お前は芸術系を擁する短大に勤めているからそんなことを言うのだ。もう少し冷静に計算すれば、そんな判断は生まれないはずだ」と言われるかもしれませんが、私はどうもそれだけでは面白くないと思います。いろいろと公共交通の存在意義が言われますが、私個人として一番重視しているのは、難しく言えば都市の個性の表現手段であるということになりますが、高岡らしさの象徴としての万葉線なのです。それぞれの公共交通に、私はそのような匂いなり、雰囲気なり、風景というものがあるのではないかと思います。ですから、これは私だけの話ではありません。
 
時間がある時に見る番組に、「開運!なんでも鑑定団」という土曜日の午後に放映されているTV番組があります。氷見のある旧家の方が加賀藩の時代の長恨歌を絵にした巻物を鑑定団に提出し、高い評価を受けました。あるとき番組がその氷見のお宅を訪問する記録を映しました。まず出てくるのは、万葉線が走っている高岡の街並みが紹介され、そこから次に氷見の旧家の門構えが映されるという画面構成になっていました。万葉線と氷見は繋がっていないのですが、おそらく車で来た撮影隊の人たちが氷見に行くために高岡に入った時、万葉線の走っている光景を見て「これはテレビの画面になる」と考えたのでしょう。氷見・高岡という呉西地方のある種のシンボルとして、この絵をテレビ画面に上映したのではないかと思います。  
 
住んでいる人にとってみれば、あまりそういう意識はないのかもしれません。「こんなものはなくたって何とかなる」と、路面電車が走っている姿があまりにも当たり前になってしまっていて、その持つ意味、価値、雰囲気の持つ重要性に気が付かないのかもしれません。しかし、島田紳助の「なんでも鑑定団」という番組ひとつからでも分かるように、私は高岡にとって路面電車は素晴らしい、ある種の高岡らしさの象徴であって、何がそれに代替できるかというと、他にはないのではないかと思います。そういうものをなくして良いのかということです。 ですから逆に言えば、そういうものがあることを前提にして、それが活かされるような街づくりを考える。街づくりがまずあって、それから公共交通を考えるのではなく、歴史のある街なのですから、公共交通を前提にして、それを活かすような形での街づくりを考えなければいけないのではないかと思います。

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